◇サラリーマンから学習塾開業の動機を教えてください。

サラリーマン時代(損害保険会社 T社勤務)は東京・千葉・埼玉・名古屋・大阪・香川・宮崎・青森・仙台で勤務を行いました。定年後に故郷である秋田へ定住することは入社時から考えていたことです。なぜ学習塾なのか、それについては中学の教師であった両親の影響、学生時代の塾講師の経験、損害保険会社での人材育成にやりがいを感じたことなどが理由として挙げられます。更には、損害保険会社での現業において交通事故の被害者や治療する医師と接触する中で医師という仕事へのあこがれから(会社には内緒で)仕事と並行して2008年~2014年にわたり医学部再受験に挑戦し結果的には国立大学の医学部に合格できなかった挫折の経験(再受験生に対する門戸が広いと言われていた東北大学医学部を受験、私立である東海大学医学部には合格するも6年間の授業料が4,000万円を超えることから入学は断念)が塾開業を目指す大きなきっかけとなりました。仕事と家庭と受験勉強の並立、この時の苦しい経験や限られた時間での効率的な勉強方法の追究と実践、これまでの社会経験を活かして夢を持つ秋田の子どもたちの夢をかなえる力になりたい。夢をかなえる過程に中学・高校・大学受験があるなら中高一貫校に通う首都圏の子供たちに負けない教育環境を提供したい。この想いが最終的に学習塾開業に踏み切った大きな動機です。     

◇どんな塾にしたいですか。

類は友を呼ぶといいますが、学生時代の自分を振り返ると将来の夢や志をもって猛烈に努力するような仲間は近くにはいなかったように思います。のんびりした環境で自由な学生時代を送ることができたことは幸運だったかもしれません。その一方で、「自分は将来医師になりたい」「農業の発展に尽くしたい」「海外でバリバリ働きたい」「東大に入りたい」・・こんな夢や志を持って猛烈に努力する人達が近くにいて刺激を受ける環境があったら自分はどうなっていただろう?そんなことを考えることがあります。自分の人生が変わっていたかどうかは別として、そのような環境や経験が自分の人生にとってかけがえのないものになっていただろうことは想像できます。高い志を待った生徒が集まり、お互いに刺激を受けながら、競い合い、助けあい、お互いに高めあうことができる、そんな塾でありたいです。


 ◇塾の経営理念を教えてください。

人間7分 学力3分
 受験生として、さらには社会人となっても大切なのは、あきらめないこと、継続すること、謙虚であること、挑戦すること、人に対して感謝できることです(私自身はまだまだです)。勉強の成果にはとことんこだわりますが、その過程においてこれらのことを身に着けてもらいたいと考えております。
                  

◇どんな学生時代でしたか

出身は大仙市刈和野で地元の小中学校に通いました。小さな町なので塾はなく、小学の時は学校が終わるといつも駄菓子屋に行ったり近くのお寺や公園で遊んでいました。家で勉強した記憶はほとんどないのですが、当時はみんなそれが当たり前でした。朝野球もかじりましたが、休日の早起きが嫌ですぐにやめ、高学年になってからは水泳部に所属してました。

中学では3年間バスケット部に所属していましたが試合ではなかなか勝てず弱小バスケ部と揶揄され(野球部は全県準優勝、吹奏楽部は全県金賞)悔しい思いをしました。勉強に関してはテストで順位がつくことを初めて知ったのがとても新鮮でした。3年生になるまで家での勉強は部活動が休みになる定期テストの前の数日だけで、その時の勉強法は学校から配布されたワークと教科書の読み込みをひたすら何度も何度も繰り返すという地味で単純なものでしたが結果的にそれがとても効率的かつ効果的だったと思います。当時の自分は参考書という存在も知らず受験勉強もひたすら教科書とワーク、学校から配布された資料集の繰り返しでしたが、受験直前の実力テスト(秀文社?旺文社?の全県共通テスト)では国語1問ミスの497点でした。数十年前のつまらない自慢話に聞こえますが、言いたいことは公立高校の入試は昔も今も教科書・資料集を読み込み、ワーク(もしくは1つの問題集)を何度も繰り返し、定着させ、アウトプットに繋げることだということです。それらをより効果的に確実に達成させることが塾の存在意義だと考えています。ただこの思い出、担任からの「親(両親が別の中学で3年生を担当)から事前に問題を入手したな」という、いわれもない一言が忘れられない苦々しい思い出でもあります。

高校は秋田高校に進学、当時は学区外でしたが、制服のない自由な校風にあこがれて両親の反対を押し切っての越境入学でした。両親が中学教師だったので越境受験は示しがつかないと猛反対でしたが、本家の叔父さんを巻き込んで半年がかりの説得でした。住所変更も叔父さんと二人で雄和の役場に行って難色を示す係の人と根気強くやり取りをしたことをおぼえています。自分に確固たる意志さえあれば困難なこともどうにかなることを初めて感じた出来事でした。秋田高校は、まさに自由な高校で勉強もスポーツも自分次第という感じで、才能豊かな人も多くとても刺激的でした。格闘技が好きなことからレスリング部(現在は廃部)に所属しましたが、先輩達の学生服は短ランにダボダボズボン、髪型はなぜかリーゼント、しかし練習で秋商などに遠征に行くと、悲しいかなあまりのハードさについていけず(気合がないと監督の怒鳴り声と往復ビンタ、余力なくマットに倒れると立ち上がるまで足蹴にされる・・・)、スパーリングの間は秋高生はトイレに逃げ込んでいました。秋商や附属(現・明桜)のレスリング部は当時(今も?)全国トップレベルの強さで秋高レスリング部にとっては雲の上の存在でした。運動会での棒倒し、クラス対抗スポーツ大会、学園祭、マージャン・・・楽しい高校生活でしたが坊主頭がいつしかストレートパーマにかわり、入学時上位だった成績はどんどん落ち、代りにマージャンの腕を上げ、(原付)バイクを走らせ・・・すっかりありがちなダメ秋高生になっていました。秋高の校風である「自由闊達」の責任は自ら負うことになることを実感しました。大学受験はずっと一橋大学を志望していましたが、共通一次試験の結果から合格圏内にはなく、当時は浪人に対して若干ネガティブな風潮もあり、東京にある国公立大学文系で2次試験に得意の数学がある大学を絞り込み東京都立大学を受験し入学しました(私立併願は英語・数学・小論文で慶応・経済を受験し補欠合格でした)。

大学では、ESS(英語サークル)に所属し、授業そっちのけで英語劇や英語でのディベートに没頭しつつ、極真空手の道場に通い、夕方は学習塾の講師と家庭教師のアルバイトを週5ペースでやっていました。当時の都立大学は夜間もあり年間授業数の制限もほとんどなかったので2年でほぼ単位を取り終え、3年生からはバイト(日雇の力仕事)とアジアの国々やインド、アメリカへの一人旅を繰り返してました。大学での成績はほとんど底辺に位置していましたが様々な経験をしたせいか就職は運よく第一志望のT社(損害保険会社)に入社できました。

◇夢や目標を教えてください

佐々木塾で成長し結果をのこしてもらい、佐々木塾で過ごした時間はつらかったけどあの時頑張ってよかったなぁと後々一人でも多くの生徒に思ってもらえたら最高です。そのためにも自分自身、生徒に負けないように様々な学習を継続し心身を鍛え成長を目指していきます。